ごちゃまぜのちから――― 「はっぴーの家」を再び訪れて

神戸市長田区にある「はっぴーの家ろっけん」を訪れるのは、今回で二回目です。

「はっぴーの家」って、なんやねん?|はっぴーの家ろっけん

ここを知ったきっかけは、大分県佐伯市で開かれたイベントでした。映画「30(さんまる)」の上映とお話を通して、ケアマネージャーの岩本さん、介護士の沼田さんと知り合いました。

最初は、正直なところ半信半疑でした。

高齢者が暮らす場所に、子どもも地域の人も集まってくる。職員なのか、入居者の家族なのか、近所の人なのか、初めて来た私には分からない人たちが、同じ空間で過ごしている。

数か月後、実際に訪れてみて、「こういうことか」と腑に落ちる感じがありました。

多世代型介護付きシェアハウスとしての「はっぴーの家」。
子どもや地域の人が集う場所としての「はっぴーの家」。
なんとなくタバコを吸いに来る人もいるような「はっぴーの家」。

どれも、同じ「はっぴーの家」です。

行くことを事前に伝えていない私が悪い。というか、伝えたからと言って、良い意味で「自由に見てください」というスタイルなのです。

はっぴーの家に初めて来る人へ〜カオスに飛び込むための見学ガイド〜|はっぴーの家ろっけん

今回も、まずは喫煙スペースで十五分ほどぼんやりしてから、スタッフステーションに顔を出しました。


「あれっ。お久しぶりです」

 これまで二回しか会ったことがないはずの沼田さんが、そう声をかけてくれました。私は凄く印象に残った素敵なお兄さんなので覚えていましたが、一年もたって覚えてくれているとは思っていませんでした。
 先に立ち寄ったカレー屋さん「Spice up(スパイスアップ)」でも、去年一度来ただけの私を覚えてくれていたことに驚きました。

自分が来たことを覚えてくれている。

それだけのこと、と言えばそれだけなのですが、やっぱり嬉しい。二度目の訪問は、そんなところから始まりました。


ここで暮らす方々の、日常生活でできることも、認知機能もさまざまです。退所される方もいれば、お亡くなりになる方もいる。
職員も、新しく加わる方がいらっしゃいます。

はっぴーの家で、日常の登場人物になりたい方へ(2026年9月1日更新)|はっぴーの家ろっけん

同じ場所でありながら、そこにいる人も、その人の状態も変わっていく。

水の流れも、人間の身体も、大きく見れば変わっていないように見えて、細かく見れば常に変化しています。「はっぴーの家」も、そんな場所なのかもしれません。

それなのに、また来た私が自然に迎えられる。この居心地のよさが続いていることは、実は簡単なことではないのだと思います。

サービスの質を一定に保つことは大切です。でも、一度だけ「ものすごい」をするよりも、いつも「すごい」を続けることの方が、ずっと難しいのではないでしょうか。特に、人と人との関わりでは。

料理なら、レシピがあれば近い味を出せるのかもしれません。しかし、人との関わりには、レシピどおりにいかないことがたくさんあります。同じ言葉でも、相手やタイミング、その日の気分によって、受け取られ方は変わります。

「こうすればいい」という関わり方だけが独り歩きすると、目の前の人が見えなくなることだってあります。

 ここで感じる自然さも、スタッフの皆さんがその時々の相手を見ながら、関わりを重ねてきた結果なのかもしれません。
二度目に来て、私はそんなことを感じました。


2024年12月に閣議決定された「認知症施策推進基本計画」では、「新しい認知症観」が示されています。認知症になっても、その人にはできることや、やりたいことがある。地域の人たちとつながりながら、自分らしい暮らしを続けられる、という考え方です。

「はっぴーの家」にいると、その考え方を日々の暮らしの中で受け取れるように感じます。
 認知症のある人も、子どもも、職員も、たまたま遊びに来た私も、それぞれの事情を持って、同じ場所にいる。専門職としての役割はありながらも、その人との関わりは役割だけには収まりません。

前回訪れたときにも、職員なのか地域の人なのか、よく分からない場面がありました。私には分からなくても、そこにいる人たちには分かっている。誰が何者なのかを私が確認しなくても、その場にいられることが心地よかったのです。


今回、ホールの真ん中には、習字で書かれた戒名がありました。亡くなられた日と、お名前、九十七歳という年齢も添えられていました。

テレビの前には、これまでここで暮らし、お亡くなりになった方々の写真も飾られています。

その方は、もうここにはいない。でも、お名前や顔が、今ここにいる人たちの暮らしの中にある。そのことに意味があるように思います。

お坊さんに戒名をつけていただくのもよいけれど、生前に関わった人たちが「この人にはどんな名前がよいだろう」と真剣に考えてくれるとしたら、私はそれも嬉しいと思います。実際にどのような経緯でつけられた戒名なのかは分かりませんが、その文字を見ながら、そんなことを考えました。
詳しくは書けませんが、「法被(はっぴー)」から始まる戒名なんて、粋じゃありませんか。

前回も、亡くなった方の写真が日常の場所にあることが印象に残りました。今回も、やっぱり目が留まります。

ここでいう「ごちゃまぜ」には、世代や職業、国籍の違いだけでなく、今を生きている人と、亡くなった人の記憶も含まれているのかもしれません。


「はっぴー」のコンセプトの一つに、「1人のプロより100人の素人」という言葉があります。そして、「ごちゃまぜ」。
 ごちゃまぜという言葉には、整理されていない、統一されていない、という少しネガティブな響きもあります。でも、世の中の物事も、人のこころも、もともとごちゃまぜなのではないでしょうか。

嬉しいけれど、少し寂しい。好きだけれど、腹も立つ。誰かの力になりたいけれど、自分だって助けてほしい。

きれいな「上澄み」だけをすくえば、きれいな言葉で説明できるのかもしれません。しかし、実際の暮らしには、うまく説明できないことや、割り切れないことがたくさんあります。
 「はっぴーの家」に惹かれるのは、そうしたごちゃまぜの暮らしを、そこにいる人たちが一緒に続けているように感じるからです。

もちろん、二度訪れただけの私に、日々の苦労が分かるわけではありません。居心地がよいと感じるその裏で、調整や迷いや、しんどさもあるのでしょう。外から見て「素敵ですね」と言うだけでは、分からないことがたくさんあると思います。

それでも、また訪れて、また「良いなぁ」と感じました。

「はっぴーの家」では看護学生さんの実習も受け入れているそうです。訪問看護の部門もあるし、介護の専門家、ケアマネさん、ダンサー、ブタちゃん、地域のお子さん、入居者さん、それらの”有機的な繋がり”を学べるのは本当に羨ましい。ただ、スタッフさんは「はっぴーが普通だと思わんでね」と少し自嘲的に話します。
 確かに、はっぴーの家は普通ではない。「ごちゃまぜ」どころか「ごちゃごちゃしている」としか見えない人もいるのかもしれない。でも、私は学生さんが「はっぴー」を見てどう感じるか。はっぴーを通して「医療とは何か」「人の生活を支えるとは何か」を考えられたらいいな、と思います。

 前回のnoteに書いたことと同じになってはいけないような気がして、少し筆が止まっていました。でも、同じ場所を訪れて、同じように心が動くことも、書いてよいのでしょう。

初めてのときは、その自由さや賑やかさに驚きました。

二度目の今回は、人も暮らしも変わっていく中で、また来た人が自然に迎えられることに心が動きました。

「ごちゃまぜ」の中で、人との関わりを続けていく。

そのちからを、もう少し知りたいと思っています。


前回の訪問記:「はっぴーの家ろっけん」に、お邪魔してきました。|ぬかのぷー(まなあこ 代表)(2025年8月30日公開)

参考資料: