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  • ごちゃまぜのちから――― 「はっぴーの家」を再び訪れて

    神戸市長田区にある「はっぴーの家ろっけん」を訪れるのは、今回で二回目です。

    「はっぴーの家」って、なんやねん?|はっぴーの家ろっけん

    ここを知ったきっかけは、大分県佐伯市で開かれたイベントでした。映画「30(さんまる)」の上映とお話を通して、ケアマネージャーの岩本さん、介護士の沼田さんと知り合いました。

    最初は、正直なところ半信半疑でした。

    高齢者が暮らす場所に、子どもも地域の人も集まってくる。職員なのか、入居者の家族なのか、近所の人なのか、初めて来た私には分からない人たちが、同じ空間で過ごしている。

    数か月後、実際に訪れてみて、「こういうことか」と腑に落ちる感じがありました。

    多世代型介護付きシェアハウスとしての「はっぴーの家」。
    子どもや地域の人が集う場所としての「はっぴーの家」。
    なんとなくタバコを吸いに来る人もいるような「はっぴーの家」。

    どれも、同じ「はっぴーの家」です。

    行くことを事前に伝えていない私が悪い。というか、伝えたからと言って、良い意味で「自由に見てください」というスタイルなのです。

    はっぴーの家に初めて来る人へ〜カオスに飛び込むための見学ガイド〜|はっぴーの家ろっけん

    今回も、まずは喫煙スペースで十五分ほどぼんやりしてから、スタッフステーションに顔を出しました。


    「あれっ。お久しぶりです」

     これまで二回しか会ったことがないはずの沼田さんが、そう声をかけてくれました。私は凄く印象に残った素敵なお兄さんなので覚えていましたが、一年もたって覚えてくれているとは思っていませんでした。
     先に立ち寄ったカレー屋さん「Spice up(スパイスアップ)」でも、去年一度来ただけの私を覚えてくれていたことに驚きました。

    自分が来たことを覚えてくれている。

    それだけのこと、と言えばそれだけなのですが、やっぱり嬉しい。二度目の訪問は、そんなところから始まりました。


    ここで暮らす方々の、日常生活でできることも、認知機能もさまざまです。退所される方もいれば、お亡くなりになる方もいる。
    職員も、新しく加わる方がいらっしゃいます。

    はっぴーの家で、日常の登場人物になりたい方へ(2026年9月1日更新)|はっぴーの家ろっけん

    同じ場所でありながら、そこにいる人も、その人の状態も変わっていく。

    水の流れも、人間の身体も、大きく見れば変わっていないように見えて、細かく見れば常に変化しています。「はっぴーの家」も、そんな場所なのかもしれません。

    それなのに、また来た私が自然に迎えられる。この居心地のよさが続いていることは、実は簡単なことではないのだと思います。

    サービスの質を一定に保つことは大切です。でも、一度だけ「ものすごい」をするよりも、いつも「すごい」を続けることの方が、ずっと難しいのではないでしょうか。特に、人と人との関わりでは。

    料理なら、レシピがあれば近い味を出せるのかもしれません。しかし、人との関わりには、レシピどおりにいかないことがたくさんあります。同じ言葉でも、相手やタイミング、その日の気分によって、受け取られ方は変わります。

    「こうすればいい」という関わり方だけが独り歩きすると、目の前の人が見えなくなることだってあります。

     ここで感じる自然さも、スタッフの皆さんがその時々の相手を見ながら、関わりを重ねてきた結果なのかもしれません。
    二度目に来て、私はそんなことを感じました。


    2024年12月に閣議決定された「認知症施策推進基本計画」では、「新しい認知症観」が示されています。認知症になっても、その人にはできることや、やりたいことがある。地域の人たちとつながりながら、自分らしい暮らしを続けられる、という考え方です。

    「はっぴーの家」にいると、その考え方を日々の暮らしの中で受け取れるように感じます。
     認知症のある人も、子どもも、職員も、たまたま遊びに来た私も、それぞれの事情を持って、同じ場所にいる。専門職としての役割はありながらも、その人との関わりは役割だけには収まりません。

    前回訪れたときにも、職員なのか地域の人なのか、よく分からない場面がありました。私には分からなくても、そこにいる人たちには分かっている。誰が何者なのかを私が確認しなくても、その場にいられることが心地よかったのです。


    今回、ホールの真ん中には、習字で書かれた戒名がありました。亡くなられた日と、お名前、九十七歳という年齢も添えられていました。

    テレビの前には、これまでここで暮らし、お亡くなりになった方々の写真も飾られています。

    その方は、もうここにはいない。でも、お名前や顔が、今ここにいる人たちの暮らしの中にある。そのことに意味があるように思います。

    お坊さんに戒名をつけていただくのもよいけれど、生前に関わった人たちが「この人にはどんな名前がよいだろう」と真剣に考えてくれるとしたら、私はそれも嬉しいと思います。実際にどのような経緯でつけられた戒名なのかは分かりませんが、その文字を見ながら、そんなことを考えました。
    詳しくは書けませんが、「法被(はっぴー)」から始まる戒名なんて、粋じゃありませんか。

    前回も、亡くなった方の写真が日常の場所にあることが印象に残りました。今回も、やっぱり目が留まります。

    ここでいう「ごちゃまぜ」には、世代や職業、国籍の違いだけでなく、今を生きている人と、亡くなった人の記憶も含まれているのかもしれません。


    「はっぴー」のコンセプトの一つに、「1人のプロより100人の素人」という言葉があります。そして、「ごちゃまぜ」。
     ごちゃまぜという言葉には、整理されていない、統一されていない、という少しネガティブな響きもあります。でも、世の中の物事も、人のこころも、もともとごちゃまぜなのではないでしょうか。

    嬉しいけれど、少し寂しい。好きだけれど、腹も立つ。誰かの力になりたいけれど、自分だって助けてほしい。

    きれいな「上澄み」だけをすくえば、きれいな言葉で説明できるのかもしれません。しかし、実際の暮らしには、うまく説明できないことや、割り切れないことがたくさんあります。
     「はっぴーの家」に惹かれるのは、そうしたごちゃまぜの暮らしを、そこにいる人たちが一緒に続けているように感じるからです。

    もちろん、二度訪れただけの私に、日々の苦労が分かるわけではありません。居心地がよいと感じるその裏で、調整や迷いや、しんどさもあるのでしょう。外から見て「素敵ですね」と言うだけでは、分からないことがたくさんあると思います。

    それでも、また訪れて、また「良いなぁ」と感じました。

    「はっぴーの家」では看護学生さんの実習も受け入れているそうです。訪問看護の部門もあるし、介護の専門家、ケアマネさん、ダンサー、ブタちゃん、地域のお子さん、入居者さん、それらの”有機的な繋がり”を学べるのは本当に羨ましい。ただ、スタッフさんは「はっぴーが普通だと思わんでね」と少し自嘲的に話します。
     確かに、はっぴーの家は普通ではない。「ごちゃまぜ」どころか「ごちゃごちゃしている」としか見えない人もいるのかもしれない。でも、私は学生さんが「はっぴー」を見てどう感じるか。はっぴーを通して「医療とは何か」「人の生活を支えるとは何か」を考えられたらいいな、と思います。

     前回のnoteに書いたことと同じになってはいけないような気がして、少し筆が止まっていました。でも、同じ場所を訪れて、同じように心が動くことも、書いてよいのでしょう。

    初めてのときは、その自由さや賑やかさに驚きました。

    二度目の今回は、人も暮らしも変わっていく中で、また来た人が自然に迎えられることに心が動きました。

    「ごちゃまぜ」の中で、人との関わりを続けていく。

    そのちからを、もう少し知りたいと思っています。


    前回の訪問記:「はっぴーの家ろっけん」に、お邪魔してきました。|ぬかのぷー(まなあこ 代表)(2025年8月30日公開)

    参考資料:

  • AIで、看護師は患者を考える時間を取り戻せるか

    ぬかのぷー(まなあこ 代表)

    ぬかのぷー(まなあこ 代表)

    2026年9月22日 11:02

    「看護研究におけるAIの活用」について書きました。
     そこでは、AIが作る文章の「もっともらしさ」や、誤った情報を生み出すハルシネーション、研究にAIを利用する際の透明性や倫理について考えました。

     AIを過信してはいけないし、依存するのもよくない。それは今も変わりません。しかし今回は、少し違う角度から考えてみたいと思います。AIには、看護や医療をよくする可能性が間違いなくあると思います。
     技術にあぐらをかくのでも、AIに判断を任せてしまうのでもなく、看護師がAIを活用して患者を観て、患者について考える時間を取り戻せるとしたら、そこにはどのような未来があるのでしょうか。

    看護師が患者のそばに行けない

     看護師不足が言われるようになって久しくなります。もちろん、看護師の人数そのものが足りないという問題があります。しかし、それだけではありません。

     看護師は病棟にいる。患者のそばに行きたいとも思っている。それでも、記録、情報収集、申し送り、会議、調整、確認作業、診療報酬上必要な入力などに追われ、ベッドサイドに行く時間がない。
     患者から見れば「看護師はいるのに、来てくれない」。看護師自身も、患者と関わりたいのに関われない。これもまた、実質的な看護師不足の一つのカタチといえるのかもしれません。

    AIが役立つ可能性があるのは、まさにこの部分です。

    AIが看護サマリーを作る

     総合病院に勤めている妻の職場では、「ユビー生成AI」を使って看護サマリーを作成する取り組みが始まっています。

     ユビー生成AIは、電子カルテに蓄積された情報を集約し、退院・転院・申し送りサマリーなどの下書きを作成できます。すでに複数の医療機関で利用され、サマリー作成時間の短縮も報告されています(1)。
     これまで長い時間をかけてカルテを読み返し、整理し、文章にしていたものを、AIが短時間でまとめてくれる。それによって看護師の負担が軽くなるのであれば、大きな意味があります。
     書くことが楽になれば、単に早く書き終えられるだけではなく、これまで忙しさのために書き残せなかったことまで記録できるようになるかもしれません。

     患者のわずかな表情の変化。
     何気なく話した言葉。
     家族との関係。
     看護師が感じた小さな違和感。

     そのような数値化しにくい情報まで残せるようになれば、記録はもっと豊かになり、次の看護につながっていく可能性があります。ただし、書くことが楽になることと、書かれる内容が豊かになることは同じではありません。

    「AIの出力に何が足りないか」を説明できるか

     妻の職場では、AIが作成したサマリーをそのまま使うのではなく、「AIの出力に何が足りないのかを明確にするように」と言われているそうです。それはもっともな指示です。しかし妻は、「何が足りないのかを言葉にすることは、なかなかに難しい」と話していました。
     患者の経過を理解し、AIが拾わなかった情報に気づき、それを言葉にして加えるためには、看護師自身が患者をよく見ていなければなりません。
     看護師が患者に対して抱く「何となく気になる」「いつもと少し違う」という感覚は、必ずしも最初から言葉になっているわけではありません。
     表情、声の調子、沈黙、間の取り方、動作、家族との関係。そうしたものを一つひとつ分析した結果というより、いわば、まだ言葉として分けられる前の”気づき”として感じ取っていることがあります。

     AIが要約できるのは、基本的には、誰かが既に記録した情報です。まだ言葉になっていない気づきや、記録されなかった違和感までを要約してくれるわけではありません。
     さらに妻は、AIが作った文章を、周囲が比較的そのまま受け入れてしまうような雰囲気もあると感じているそうです。もちろん、妻から聞いた話だけで、その病院全体のAI利用を評価することはできません。
     ただ、AIの文章は整っているからこそ、欠けているものが見えにくくなるという問題があると思います。不自然で間違いの多い文章なら、人は注意深く確認します。しかし、簡潔で読みやすく、医療文書らしい表現でまとめられていると、それだけで「きちんと書かれている」と感じてしまいます。

    忙しい現場では、
     AIが下書きを作る。
     看護師が十分に確認する。
     必要な情報を追加し、修正する。

    という本来の流れが、
     AIが下書きを作る。
     大きな間違いがないかだけを見る。
     そのまま確定する。
    という流れになる可能性もあります。

     これは、個々の看護師の責任だけではありません。AIの出力を吟味するための知識と時間がなければ、「人間が最終確認するから安全」という仕組みは、形式だけのものになってしまいます。

    看護師の気づきを、AIが拾い直す

     一方で、AIが看護師の観察や判断を生かして、患者の安全につなげる事例もあります。

     米国で開発されたCONCERN(COmmunicating Narrative Concerns Entered by RNs)という早期警戒システムがあります。これは、看護師が電子カルテに入力した記録や、その入力パターンを機械学習で分析し、患者の状態が悪化する危険を予測するものです。この研究は、74病棟における60,893件の入院を対象とし、通常ケア群と比較して、介入群では以下の結果が認められました。

     死亡の瞬間的リスクが35.6%低下した(p<0.0001)
     入院期間が11.2%短縮した(p<0.0001)
     敗血症の瞬間的リスクが7.5%低下した(p=0.0317)
     予期しない集中治療室(Intensive Care Unit:ICU)への移送の瞬間的リスクが24.9%上昇した(p=0.0011)
     *「予期しないICUへの移送」は悪化を早期に発見し集中治療へ繋げることが出来た、という肯定的に解釈してよい結果だと考えます。

     この研究は、単に過去の診療データを解析したものではなく、実際の臨床現場でシステムが示した情報を医療チームへ知らせることによって、患者の転帰が変わるかを検証しています。

     看護師が患者に接するなかで感じる「いつもと少し違う」「何となく気になる」という認識は、十分に言語化されないことがあります。しかし、その懸念は、記録回数や観察行動などの変化として電子カルテに現れる可能性があります。
     CONCERNは、その痕跡を機械学習によって可視化し、医療チームに伝えています。つまり、看護師の判断をAIに置き換えたのではなく、看護師の観察と臨床的な違和感を「AIがデータとして拾い上げ、増幅してチームに伝えた」研究です。

     一人の看護師が感じた小さな変化は、それだけでは目立たないかもしれません。しかし、複数の看護師が残した記録を時間の流れに沿ってAIがつなぎ合わせれば、患者の悪化を示すパターンとして見えてくる可能性を示しています。その点で、AIは看護師の感性を不要にするのではなく、感性によって捉えられたものを、見過ごされにくい情報へ変えてくれるのかもしれません。

     書くことが楽になる。
     その分、書く内容が豊かになる。
     書かれた内容をAIが拾い直し、次の看護につなげる。

    そのような循環が生まれるのであれば、AIは看護をよくする道具になり得ると思います。

    AIによって生まれた時間は、誰のものか

     しかし、AIによって記録時間が短くなったとしても、その時間が患者との関わりに戻るとは限りません。

     一人の看護師が受け持つ患者が増えるかもしれませんし、新しい入力項目が追加されるかもしれません。「短時間で書けるのだから、もっと詳しく記録できるでしょう」と、記録量だけが増える可能性もあります。あるいは、AIによって仕事が減ったのだから、看護師の人数も減らせると考えられるかもしれません。

     2026年、米国では、データ分析企業Palantir(パランティア)の技術が病院の人員配置などに利用されることに対して、看護師たちが抗議活動を行いました。看護師たちが訴えたのは、AI一般を拒絶することではなく、AIが人員削減や、少ない人数で病棟を運営するための道具として使われる危険でした(3)。

     AIが患者の状態や業務量を分析し、必要な人員を増やすために使われるのであれば、患者の安全に貢献します。しかし、同じ技術が「最低何人いれば病棟を回せるか」を計算するために使われれば、まったく反対の結果になります。

    AIによる効率化で生まれた時間や利益を、誰のために使うのか。

     患者のために使うのか。
     看護師が考える余白にするのか。
     さらに多くの業務を詰め込むのか。
     人員を減らす根拠にするのか。
    それを決めるのは、AIではありません。

    余白のすべてを患者対応にしなくてもよい

     ここで、「AIによって生まれた時間は、すべて患者との直接的な関わりに使うべきだ」と考えるのも、少し違うように思います。

     四半世紀前に私が勤務していた頃、詰所でお茶を飲み、看護師同士で何気ない話をする姿も見られました。
     患者を放置して休んでよいという話ではありませんが、休息すること、感情を整理すること、同僚と話すことも、次の看護を支えるための”意味のある時間”であり、私にとって「思い出深い時間」だったと思います。

    患者のそばにいる時間だけが看護なのではありません。

     患者について考える。
     同僚と相談する。
     自分の判断を振り返る。

    こうした余白もまた、看護を支えています。

     AIによって増やしたいのは、看護記録の文字数だけではありません。
    患者について考える時間と、その思考の過程を残すことなのだと思います。

    「人間が確認するから大丈夫」でよいのか

     2026年9月、OpenAIとAnthropicでAI開発に携わってきたジェイコブ・コクソンがAnthropicを退職し、AI開発の速度が、人間が安全性を確認する能力を上回りつつあると警告しました(4)。コクソンが問題にしたのは、人間を上回る自己改良型AIと人類存続の危険であり、その話を現在の医療AIにそのまま当てはめることはできません。
     しかし、共通する問いはあります。

     AIが何かを出力し、最後に人間が確認する。私たちは、それによって安全性が保たれると考えています。しかし、確認する人間に知識がなければどうでしょうか。原文を読む時間がなければどうでしょうか。AIの判断に異議を唱える権限がなければどうでしょうか。
     人間が確認欄にチェックを入れていても、実質的にはAIの出力を追認しているだけかもしれません。人間が最終的に判断するという原則を掲げるだけでなく、人間が本当に判断できる環境を残しておく必要があります。

    AIには、看護や医療をよくする可能性があります。

     記録を整理し、サマリーにする。
     膨大な情報から患者の小さな変化を見つける。
     経験の浅い看護師が見落としている視点を示す。
     患者に合わせた言葉や方法で説明する。
     必要な知識や専門家につながる道筋を示す。

     こうした支援によって、看護師が事務作業から少し解放され、患者を見ることができる。患者の話を聴き、その人に何が起きているのかを考えることができる。

    私は、そのような未来があってほしいと思います。しかし、その未来は、AIが自動的に実現してくれるものではありません。AIが看護をよくするかどうかは、AIが何をできるかだけでなく、AIによって生まれた時間と情報を、私たちが何のために使うかにかかっています。AIに患者を考えてもらうためではなく、看護師が患者について考える時間を取り戻すためにAIを使う。

     そのような選択を積み重ねることができれば、AIは看護師に代わる存在ではなく、これまで十分にできなかった看護を実現するための力になってくれるのかもしれません。

    参考資料

    (1)Ubie「ユビー生成AIで病院のあらゆる業務にAIを」

    https://intro.dr-ubie.com/products/generativeai_lp

    (2)Rossetti SC, et al. “Real-time surveillance system for patient deterioration: a pragmatic cluster-randomized controlled trial.” Nature Medicine. 2025 Jun;31(6):1895-1902.

    https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/40175738

    (3)Healthcare IT News「Nurses nationwide protest Palantir technology in hospitals」

    https://www.healthcareitnews.com/news/nurses-nationwide-protest-palantir-technology-hospitals

    (4)時事通信「AI業界去る研究者、『AIが人類滅ぼす可能性』を警告」

    https://www.jiji.com/jc/article?k=20260910049342a&g=afp

  • 異常は、気づかれて初めて「情報」になる -抜き打ち訓練から考えるIT-BCP-

     BCP(Business Continuity Plan:事業継続計画)について、私が本格的に意識するようになったのは、コロナ禍や大規模災害への対応を考えるようになった頃でした。

    BCPとは、何が起きてもすべての業務を続けるための計画ではありません。

    限られた人員や設備の中で、どの機能を優先して残すのか。反対に、どの業務については一時的な停止を容認するのか。それをあらかじめ考えておくためのものです。内閣府も、BCPを、災害時に特定した重要業務を中断させないこと、または中断しても目標復旧時間内に重要な機能を再開させるための取り組みとして説明しています(1)。

     重大な事態が起きたときに、「全部直せ」「何とかしろ」と叫んでも、それだけで物事が解決するわけではありません。それは責任感の表明にはなっても、具体的な対応方針にはならないからです。リスク事象が起こらないことを願う気持ちとは別に、「もし起こったら、どうするのか」を考えておく必要があります。

    もし火災が起こったら。
    もし停電が起こったら。
    もし電子カルテが使えなくなったら。

    飛行機にトラブルが起きたときには、まず安全に着陸することを考えなければなりません。しかし、医療機関には入院中の患者さんがいて、救急患者が運ばれ、緊急手術が行われていることもあります。システムに異常が生じたからといって、医療そのものを「停止すればよい」とも言い切れません。

     厚生労働省が2024年に公表した医療機関向けのIT-BCPのひな形でも、目的はシステムの復旧だけではなく、「医療安全、情報保全を担保」しながら診療を継続し、早期復旧を実現することに置かれています。また、責任者、担当部署、連絡体制、初動対応、診療継続、復旧、再発防止などを事前に定める構成になっています(2)。

     「備えあれば憂いなし」とはいいますが、その“備えをすること”は、決して生易しいものではありません。とりわけ、近年相次いでいるランサムウェアによる被害について、「完全に防ぐことができる」と言い切れる医療機関は、ほとんどないのではないでしょうか。

     2021年にランサムウェアの被害を受けた徳島県つるぎ町立半田病院では、電子カルテを含む院内データが暗号化され、約2カ月にわたって通常の病院業務に支障が生じました。同院は、その原因や対応を外部有識者による調査報告書として公表しています(3)。これは、サイバー攻撃が単なる「コンピュータの故障」ではなく、診療そのものを揺るがす問題であることを示した事例です。

    IT-BCPをめぐる直近の動き

    2026年6月29日、厚生労働省は「医療情報システムの安全管理に関するガイドライン 第7.0版」の策定について、産情発0629第1号として通知しました(4)。2023年5月に公表された第6.0版を改定したもので、主に次の内容が加えられています。

    • 医療機関とシステム・サービス事業者との責任分担
    • 委託先を含むサプライチェーンリスクへの対応
    • 医療機関と事業者とのリスクコミュニケーション
    • クラウドサービスの活用
    • 「保守委託機関編」の新設
    • パスワードの使い回し禁止
    • セキュリティ強化につながらない定期的なパスワード変更要件の削除
    • クライアント端末およびサーバにおける二要素認証の明確化

     これらの改定からは、医療機関の中で計画を作ればよいのではなく、システム事業者や保守事業者を含め、どこにリスクがあり、誰が何を担うのかを考える必要性が強まっていることが分かります。

     同じく2026年6月に公表された「令和8年度版 医療機関・薬局におけるサイバーセキュリティ対策チェックリスト」およびマニュアルでは、「インシデント発生に備えた対応」として、次の3点が明記されています。

    • 組織内および外部関係機関への連絡体制図がある
    • 診療継続に必要な情報を検討し、バックアップと復旧手順を確認している
    • サイバー攻撃を想定したBCPを策定している

     さらに、医療法第25条第1項に基づく立入検査ではチェックリストが確認され、情報機器等の台帳、連絡体制図、サイバー攻撃を想定したBCP、運用管理規程等については現物確認の対象になるとされています。つまりIT-BCPは単なる参考資料ではなく、診療を継続するために何が必要か、誰が判断し、誰に報告し、どのように復旧するかまで、実際の運用に結びつけておく必要があるといえます。チェックリストのマニュアルでも、BCPを策定していても実際には運用できず、バックアップを復旧できない事例があることから、BCP訓練の実施が望ましいとされています(5)。

    抜き打ち訓練で見えたもの

     m3.comの記事では、大津赤十字病院で実施された抜き打ちのIT-BCP訓練が紹介されていました(6)。
     院内51カ所のプリンターから、「ビットコインを送信しなければデータを永久に失う」と書かれた用紙を一斉に印刷し、職員が異常に気づいて医療情報課へ報告できるかを確かめる訓練です。一部の管理職を除き、ほとんどの職員には訓練であることが知らされていませんでした。
    最初の報告は開始から2分後でした。しかし、1時間以内に報告があったのは51カ所中32カ所にとどまり、医局に設置された3台のプリンターからは、一件も報告がありませんでした。

    「自分が印刷した紙でなければ見ない」
    そう答えた医師がいたそうです。これは、単なる注意不足として片づけられる問題なのでしょうか。自分以外の人の印刷物を勝手に見てはいけない、という意識もあるでしょう。「誰かが印刷した何かなのだろう」と考え、気に留めずに通り過ぎることも、十分に想像できます。プリンターが机の下や目線より高い位置に置かれ、印刷物そのものが見えにくかった部署や、プリンターが職員の働く場所から離れていた部署もあったそうです。

    「人が多ければ、誰かが気づいてくれそう」とも感じます。
     しかし実際には、人が多いからこそ、「ほかの誰かが見ているだろう」と考えてしまうことがあります。野球で、二人の野手がお互いに相手が捕ると思い、ボールがその間に落ちてしまう「お見合い」に似ています。
     心理学では、周囲に他者がいることで一人ひとりが感じる責任が小さくなることを「責任の分散」と呼び、緊急事態への介入が抑制される「傍観者効果」を説明する要因の一つとされています。DarleyとLatanéは1968年の実験で、ほかにも対応できる人がいると思う状況では、緊急事態を報告する割合が低下し、報告までの時間も長くなることを示しました(7)。
     ただし、今回の記事に登場する職員の行動を、この概念だけで説明できるわけではありません。多忙さ、機器の配置、印刷物を見ないという日常的な慣行など、複数の要因が重なっていたと考えるべきでしょう。

    「気づかなかった」という言葉

     一方で、「気づかなかった」という言葉が、いつも文字どおりの事実だとは限りません。何かに気づいていても、忙しさや面倒さから、見て見ぬふりをしてしまうこと、声をかけられていたのに、聞こえなかったふりをしてしまうこともあるのではないでしょうか。「気づかなかった」「報告しなかった」という結果だけを見て、個人の意識の低さを責めても、問題の解決にはつながりません。
     気づきにくい場所に機器が置かれていなかったか。気づいた人が報告しやすい仕組みになっていたか。多数の報告が集中したとき、誰が情報を整理し、誰が意思決定者へ伝えるのか。そうした人、環境、仕組みの全体を見直す必要があります。

    医療情報学・看護情報学は、機械の話だけではない

     私は、医療情報技師という認定資格を持っています。他の医療従事者よりは、医療情報について少し知識があるのかもしれない、と感じることもあります。しかし、次々に登場する用語や略語は、すでに私の理解を超えていますし、「聞いたことがある」とさえ言えないほどの速度で、情報技術は進歩しています。
     医療ITの高度化によって、以前より簡単にできるようになったことはたくさんあります。その一方で、以前は自分で行うのが当たり前だったことを、面倒に感じるようにもなりました。使わない能力が少しずつ衰えていくように、自分の能力や感性が磨かれなくなっていく。そんな感覚を持つこともあります。
     医療情報学や看護情報学は、電子カルテの操作方法や個人情報保護、情報セキュリティだけを扱うものではありません。米国医療情報学会(American Medical Informatics Association:AMIA)は、医療情報学を、データ・情報・知識を人々の健康や医療の改善に生かす科学と説明し、技術はその一要素にすぎないとしています(8)。この考え方は、看護情報学にも通じるものです。

     看護師は、患者さんの表情や言葉、身体の変化、医療機器の表示、周囲の状況など、さまざまな情報を受け取っています。それらを意味づけし、記録し、誰かに伝え、ケアや治療につなげています。異常は、存在するだけでは役立つ「情報」ではなく、誰かが気づき、意味づけし、必要な相手に伝え、組織の判断や行動につながって、初めて情報として機能します。

    「分かったふり」を越えるために

    IT-BCPが重要であることは分かっている――。
     私たちは、そう「分かったふり」をしているのかもしれません。私自身、どこにどのような問題が起こりやすく、どうすれば解決につながるのか、その答えをまだ持っていません・・・。ただし、一つだけ言えることがあります。
     医療情報システムは、もはや一部の専門職だけが扱うものではありません。医療安全の大きな一部を担うものとなり、医療情報技師の役割もますます重要になっています。同時に、「情報屋さんに任せておけばよい」という時代も、とっくに終わっています。
     樽の容量が最も短い板の高さまでに制限されるように、組織の情報セキュリティは、弱い部分から崩れていきます。一部の専門家だけが高度な知識を持っていても、十分ではありません。すべての職員が専門家になる必要はありませんが、異常に気づき、報告先を知り、必要な行動を取れるだけの基本的なリテラシーは必要です。看護師を含めたすべての職員が、異常に気づき、声を上げ、適切な相手へ伝えられること。

     IT-BCPとは、システムを復旧させるための計画であると同時に、システムに異常が起きても医療と看護を可能な限り継続するための計画なのだと改めて感じました。


    参考文献・資料

    1. 内閣府.「事業継続計画(BCP:Business Continuity Plan)」;「事業継続ガイドライン」(令和5年3月改定版).
    2. 厚生労働省.「医療情報システム部門 事業継続計画(BCP)」.2024年6月.
    3. 徳島県つるぎ町立半田病院.「コンピュータウイルス感染事案 有識者会議調査報告書」.2022年6月7日.
    4. 厚生労働省.「医療情報システムの安全管理に関するガイドライン第7.0版の策定について」(産情発0629第1号).2026年6月29日.
    5. 厚生労働省.「令和8年度版 医療機関・薬局におけるサイバーセキュリティ対策チェックリスト」;「同チェックリストマニュアル」.2026年6月.
    6. 土谷純一.「『データを永久に失う』突然の大量印刷、医師は誰も異常に気づかず◆Vol.1」.m3.com.2026年9月14日配信.(閲覧は医療従事者に限られます)
    7. Darley JM, Latané B. Bystander intervention in emergencies: diffusion of responsibility. Journal of Personality and Social Psychology. 1968;8(4):377–383. doi:10.1037/h0025589.
    8. American Medical Informatics Association. “Informatics: Research and Practice.

    *本稿作成中に6.土谷純一氏の続報が出ました。602床の病院に51人の専属職員、医療情報課とは◆Vol.2.サイバー攻撃にはアナログの備えが必要.m3.com.2026年9月16日配信.(閲覧は医療従事者に限られます) https://www.m3.com/news/iryoishin/1357033

  • 漁師が森を育てる――地域医療を考えることは、街を考えること

    「漁師が森を育てる」という話があります。

     漁師さんが守ろうとするのは、海であり魚です。しかし、豊かな海を守るためには、海だけを見ていてはいけません。森に降った雨が川となり、山の栄養を海へ運ぶ。その循環が魚や海藻を育てます。
    だから、漁師が森に木を植える。

     一見すると遠回りに見えますが、海を守るためには、海につながる森や川まで考える必要があるのです。
    先日、大分県佐伯市にある「在宅支援クリニックえがお」の院長で、一般社団法人共生社会実現サポート機構「とんとんとん」の代表理事でもある山内勇人先生の取り組みに触れる機会がありました。(一般社団法人「とんとんとん」)

     佐伯市の高齢化率は、2025年10月1日時点で42.52%です。また、2019年時点の市の調査では、高齢化率が50%以上の行政区が全体の約3分の1を占めていました。人口減少が進むなかで、地域の暮らしをどう支えていくかが問われています。(佐伯市「過疎地域持続的発展計画」、佐伯市「まち・ひと・しごと創生総合戦略」)

     山内先生たちは、そこで「ごちゃまぜ」と呼ばれる、いわゆるインクルーシブな支援に取り組んでいます。「とんとんとん」も、子ども、高齢者、障害のある方などが互いに支え合い、誰もが役割を持てる地域づくりを理念に掲げています。

     私も今回、認知症のある方、発達に特性のある方、移動に介助を必要とする方などが一緒に暮らす「きよちゃん家」に泊めていただきました。
    得意なことも、苦手なことも、できることも、人によって違います。一人では難しいことがあっても、みんなでいることで、できることが増えていく。
    誰かが一方的に「支える側」になり、別の誰かが常に「支えられる側」になるのではありません。あるときには助けてもらい、別の場面では誰かを助ける。それぞれが、その人なりの役割を持って暮らしていました。
     もちろん、これは障害や認知症があっても何でもできるとか、専門的な支援は必要ないという話ではありません。苦手なことや難しいことを互いに補いながら、その人のできることを役割につなげていく。その積み重ねによって、一人ではできなかったことが、「みんなでいることでできること」に変わっていくのだと思います。
     佐伯にはこれまでにも何度もお邪魔しています。お弁当の配食サービスや訪問診療、サロン活動やみんな食堂を見学させていただいたほか、クリニックでの医学生への講義や診察への陪席など、さまざまな活動に触れる機会をいただきました。

    医療が暮らしの中に入り、地域の人たちの活動もまた医療につながっている。

     そこには、「医療を提供する人」と「医療を受ける人」という関係だけでは捉えきれない、支え合いの姿がありました。私自身、本当に多くの刺激を受けました。
     こうした地域のあり方は、「コンパッション・コミュニティ」という考え方にも通じます。この考え方は、特に病気や老い、死別などに直面したときの支えを、医療や福祉の専門職だけの役割とせず、地域の人々も共に担うという文脈で育まれてきました。(Public Health Palliative Care Internationalの解説資料)

     それは、単に「優しい人を増やす」ということではありません。
    困ったときに助けを求められる関係、誰かの困りごとに気づけるつながり、得意なことを持ち寄れる場所。そして、支える側と支えられる側を行き来できる関係を、街の中に育てていくことです。

     地域医療は、その地域で安心して暮らし続けるために欠かせません。しかし、地域の経済や社会が縮小していくなかでは、医療機関だけを維持しようとしても、難しい問題にぶつかります。
     病院があっても、そこへ行くためのバスやタクシーがなければ、受診は難しくなります。家族が遠方に住み、付き添う人がいなければ、通院そのものが負担になることもあります。
     さらに、街に仕事が少ない。住む場所や子どもを育てる環境が十分ではない。買い物をする場所も限られている。そうした地域では、看護師をはじめとする医療従事者に「ここで働いてください」と呼びかけても、簡単には集まりません。そこで暮らし、働く人がいなければ、患者がいても、病院や診療所、訪問看護ステーションなどを維持することが難しくなります。佐伯市の計画でも、介護サービスを提供する事業所の人材不足が課題として挙げられています。佐伯市「過疎地域持続的発展計画」

     つまり、地域医療を守ることは、医師や看護師の人数を確保することだけではありません。
     交通、住居、雇用、教育、子育て、買い物、地域のつながり――人がその街で生活するための基盤も、併せて考える必要があります。
    現在は大都市でも、看護師をはじめとする医療従事者の不足が問題になっています。もちろん、都市部の人材不足も深刻です。
     ただ、別の医療機関へ移動できる場合が比較的多い都市部と、医療機関が限られ、次の受診先まで長い距離を移動しなければならない地域とでは、同じ「医療従事者不足」でも、暮らしへの影響は異なります。地方では、一つの病院や診療所がなくなることが、単に選択肢が一つ減るという話では済まないことがあります。その地域で暮らし続けられるかどうかに、直接かかわるからです。

     看護師をはじめとする医療従事者にとって、自分が働く病院や施設を見ることは、もちろん大切です。しかし、患者が退院後にどこで、誰と、どのように暮らすのか。その地域にはどのような交通手段があり、どのような支え合いや困りごとがあるのか。病院の外側にも目を向けることが、これからますます必要になるのではないでしょうか。
     もちろん、訪問看護や在宅医療、地域包括ケアなどでは、すでにこうした視点を持った取り組みが数多く行われています。現場を離れている私が知らないだけで、「そんなことは、とっくにやっているよ」と言われるかもしれません(笑)。

     それでも私自身は、どこかで「地域医療」を、医療機関や医療従事者の配置の問題として考えていたように思います。
     医療を守るためには、医療だけを見ていてはいけない。
     漁師さんが豊かな海を守るために森を育てるように、医療に携わる私たちも、病院の外にある街の暮らしや、人と人との関係に目を向ける必要があります。
     地域医療が街を支えるだけではありません。街に暮らす人々と、その人たちの温かなつながりもまた、地域医療を支えています。
     地域医療を考えることは、その地域で人がどのように生き、どのように支え合い、これからも暮らし続けられるのかを考えることなのだと思います。

  • コラム:看護研究にAIをどう活用するか― AIが書き、AIが査読する時代に -

    研究におけるAI活用について書こうと思い、考えていることをAIに入力してみました。「こんなことを書きたいんだけどどうかな?」と。
    すると、わずかな時間で、整ったコラムの叩き台が返ってきました。
    「すごい」と思うと同時に、少し違和感を覚えました。
    こんなにも簡単に“自分が書いたような文章”が出来上がってしまうから。
    この文章を「叩き台」ではなく「完成品」と思ってしまいそうな錯覚もありました。

    この一年ほどでAIは我々の生活に確実に浸透し、こちらが頼んでいなくてもAIが検索結果を表示してくれたり、「こういうことですか?」とアシストしてくれたりするのが普通になった気がします。
    「AIの発達でなくなる職業」という話題が少し前にありましたが、「その職業そのものが不要になる」ということではなく、「AIで代替できる仕事に高いお金を払う人はいなくなる」ということなのでしょう。

    AIの出力結果を“自分の考え”のように話す人のことをmeat proxy(ミート・プロキシ)という表現をするそうです。代理や代行を意味し、ネットワークにおいて中継する役割を果たす“proxy”に、人間を指すスラングの“meat”と合わせて、AIの出力を読んだり解釈したりせずに、そのまま中継するように送ってくる人を指す造語としてNiklas Gruhnがブログ上で用いたことで広がった言葉だそうです(参照:https://ai-no-mori.jp/glossary/meat-proxy/,https://gruhn.me/blog/2026-08-03/)

    AIに分からない言葉を入力すれば、すぐに説明してくれる。
    テーマを伝えれば、関連する考え方や研究方法まで提案してくれる。
    AIの整った回答を読んでいると、それだけで自分も分かったような気持ちになることがあります。これは非常に便利であるだけに、とても怖いことのように感じます。

    「教科書を丸写しするだけの勉強なら、意味がない」
    「既存の本を読み上げるだけの教員なら、必要がない」
    そう言われているような気がするのです。

    もちろん、教科書を写す中で文章を熟読し理解につながることはありますし、その本を書いた先生が講義してくれるなら裏話や割愛した話なども聞ける楽しみがあります。

    AIなどのデジタル技術は若い人の方が取り入れることに長けていることもあり、教員が思っている以上に早く状況は変化しているように感じます。大学の講義の内容をまとめたシラバス(syllabus)は授業をする前年度のうちに作成するのが通常ですが、去年の今頃にここまでAIが身近になるという変化は、私には予想できませんでした。

    しかし、AIがもっともらしく示した内容が、必ずしも正しいとは限りません。実際には存在しない文献や、不正確な数字を示す「ハルシネーション」もあります。また、紙でしか残されていない資料や、データベースの契約がなければ読めない論文など、AIが十分に参照できない情報もあります。

    ・AIが論文を作成する

    2025年12月に公開された Scientific Reports の研究では、6種類の大規模言語モデル(Large Language Model:LLM) に、既存の研究論文の「文献検索・選定」・「データ抽出・分析」・「論文全文の作成」を行わせるシステマティック・レビューを行わせ、人間が作成した既存のレビュー論文と比較しています。その結果、人間が採用した18論文のうち、最も成績のよいAIでも見つけられたのは13論文であり、データ抽出の誤りや欠落、文章は整っていても内容が短く表面的だったことなどが示されているものの、文献検索や草稿作成は人間より大幅に速く、“監督下の補助には有用”とされています。
    (Sollini et al. “Human researchers are superior to large language models in writing a medical systematic review”)

    一方、100%AI生成の論文が一定の査読水準を超えた事例として、Sakana AIが2025年3月に発表した「AI Scientist-v2」のニュースがあります。AIが仮説設定、実験計画、プログラム作成、実験、分析、図表作成、引用、論文執筆までを自動で行い、生成された3論文を、ICLR 2025という機械学習系国際会議のワークショップの査読に提出したところ、1論文が採択水準を超えました。
    (これには重要なポイントがあり、採択率が比較的高い“ワークショップ”での採択であって論文として完成したわけではないこと、3論文の全てが水準を超えたわけではないこと、事前の合意により、実際に出版される前に撤回されたことなどがあります)
    *Sakana AI公式「世界初、100%AI生成の論文が査読通過」,https://sakana.ai/ai-scientist-first-publication-jp/

    sakana AIの記事の中にもありますが、「透明性と倫理的行動規範の重要性」という観点は非常に重要です。事前に合意を得たうえで“実験として実施する”のと、黙って実施するのでは意味が異なるからです。

    AIは、研究論文を書く側だけでなく、評価する側にも入り始めています。
    国際学会に提出された査読文のうち「commendable(称賛に値する):9.8倍」「meticulous(綿密な):34.7倍」「intricate(複雑で精巧な):11.2倍」の形容詞の出現頻度が高かったことが示されました。
    (Weixin Liang et.al:Monitoring AI-Modified Content at Scale:A Case Study on the Impact of ChatGPT on AI Conference Peer Reviews,https://arxiv.org/pdf/2403.07183)

    しかも、その利用は必ずしも明示されていないこともあります。AIが書き、AIが査読するようになれば、整った文章同士が行き交う一方で、その内容を本当に理解し、妥当性に責任を持つ人間が見えにくくなり、「自分で努力したけど、ミスがある」場合ばかりに目立ってしまうことも起こります。AIが書いた論文をAIが査読し、その両方を人間が見抜けなかったとして、それを“研究が評価された”と呼べるのか、難しい問題です。

     AIが研究を査読することも研究の世界では既に起こっています。
    「査読文の中に、生成AIによって書かれた/大幅に修正された文章がどのくらい含まれているか」を調べた研究では、査読全体のコメントから「LLMによる実質的な改変・生成が含まれる割合」を統計的に推定し、査読として提出された文章のうち、6.5〜16.9%程度が、単なるスペルチェックや軽微な文章修正を超え”LLMによって大幅に修正または生成された可能性がある”と推定されています。これは単に「英語を整えるためにAIを使った」というだけでなく、時間がない、判断に自信がない、といった状況でLLMに依存している可能性が示唆されています。このデータ分析に用いたLLMは2023年・2024年のモデルであり、現在は更に加速度的に技術が進歩していることも考える必要があると思います。

    またAIに研究の査読をさせることには、AIの正確性とは別に守秘義務が問題になります。未公表の投稿論文を一般向け生成AIへ入力すると、著者の知的財産や個人情報、未公表データを第三者サービスに渡すことになりかねません。こういった点も研究をAIに使う際に考える点だと思います。

    AIが提供してくれる情報の中にも“知らない知識”や“考えていなかった観点”などもあります。ただ、それは「研究」なのでしょうか。AIが示した文献を、実際に存在するか確認しないまま引用する。研究結果の解釈や考察を、そのままAIに書かせる。こうした使い方には、当然ながら問題があります。一方で、危険性があるからという理由だけで、研究や看護教育からAIを遠ざけることが望ましいとも思いません。

    例えば、論文を読んでいて分からない統計用語が出てきたとき、その意味を自分の理解度に合わせて説明してもらう。英語論文の読みにくい箇所を翻訳してもらい、原文と照らし合わせる。研究テーマに関係する検索語を一緒に考え、文献検索の手がかりを得る。このような場面では、AIは学びを支える有力な道具になります。

    大切なのは、AIから「答えをもらう」ことではなく、AIとの対話を通して、自分が何を知らないのかに気づくことではないでしょうか。

    AIの回答を出発点として、原著論文を読む。公的機関の資料を確認する。自分の研究対象や臨床経験と照らし合わせて考える。そうすることで、AIの活用が、自分自身の知識を深めることにつながります。

    研究において問われるのは、AIを使ったかどうかだけではありません。何をAIに委ね、何を自分で確かめ、どのように判断したのかが重要です。

    看護教育もまた、大きな転換点にあります。AIの使用を一律に禁じるのでも、出力を無批判に受け入れるのでもなく、より良い使い方を学習者とともに考えていく。そのこと自体が、これからの看護教育に求められる課題なのだと思います。

  • 看護系大学は、4年で卒業するのが当たり前なのか

    ※本稿でいう「看護系大学」とは、四年制大学に設置された看護師養成課程を指します。看護系の単科大学だけでなく、総合大学等に設置された看護学部・看護学科なども含みます。

    私が看護学生だった頃には、「大学を卒業した看護師は貴重だ」といわれることがありました。

    その後、看護系大学は急速に増加しました。日本看護系大学協議会(JANPU)の2026年7月公表資料によると、全国には295大学、313の看護系学士課程があり、入学定員は約2万7,000人となっています。このうち、JANPUには312課程が加盟しています。

    厚生労働省の資料では、2025年度の大学の看護師養成課程は、入学定員26,953人に対して入学者26,871人、定員充足率99.7%でした。一方、看護師養成所の3年課程は、入学定員26,244人に対して入学者20,868人、定員充足率79.5%となっています(厚生労働省「看護を取り巻く現状について」)。

    看護師教育において、四年制大学はもはや珍しい進路ではありません。

    では、看護大学に入学した学生のうち、留年や休学をせず、4年間で卒業している学生はどのくらいいるのでしょうか。

    見えにくい留年・休学・卒業延期

    意外なことに、この問いに答えられる全国的な統計は、容易には見つかりません。

    文部科学省の調査によると、2024年度における大学全体の中途退学者は50,516人、在籍者に占める割合は2.00%、休学者は68,239人、2.70%でした。しかし、この調査では、看護学部・看護学科だけの数値は示されていません(文部科学省「令和6年度学生の中途退学者・休学者数等に関する調査結果」)。

    一方、厚生労働省の「看護師等学校養成所入学状況及び卒業生就業状況調査」では、入学時学生数、転入・転出者数、前年度卒業延期者数、退学者数、卒業延期者数などが調査項目に含まれています(厚生労働省「医療関係職種の養成・確保体制の在り方について」)。

    つまり、退学者や卒業延期者が「調査されていない」わけではありません。しかし、看護系大学の留年・休学・卒業延期の状況を、大学別、設置主体別、年度別に比較できる形では十分に公表されていないのです。

    退学者数だけを見ても、学生の状況を十分に捉えることはできません。表面上は在籍を続けていても、学業や実習、人間関係、経済的な問題などによって摩耗している学生は、もっと多いのではないでしょうか。

    看護大学が抱える二つの性格

    看護大学には、「大学」であると同時に「看護師養成機関」でもあるという二つの性格があります。

    大学には本来、幅広い教養、主体的な学修、研究的な思考、進路選択の自由などがあります。一方、看護学部では、保健師助産師看護師学校養成所指定規則に基づく科目、演習、臨地実習が組み込まれています。

    さらに、多くの大学では履修に順序性があります。一つの科目が不合格になると、次の科目を履修できない。必要な単位が取れなければ実習に行けない。その結果、一科目の不合格が一年間の卒業延期につながることもあります。

    こうした仕組みには理由があります。

    学生とはいえ、臨地実習では患者さんにケアを提供します。患者さんの安全に配慮し、根拠を理解したうえで援助を行う必要があります。専門職として賃金を得る以上、身につけておくべき知識や技術と、負うべき責任があります。看護学生の期間は、そのための訓練期間でもあります。

    看護学生の知識や実践能力を、どのように客観的に確認するかという検討も進んでいます。JANPUは臨地実習前の学生を想定したComputer Based Testing(CBT)の実証事業を行っており、Objective Structured Clinical Examination(客観的臨床能力試験:OSCE)についても検討しています(JANPU「看護学教育の質保証に関する要望書」)。

    したがって、すべての学生を無条件に進級・卒業させればよいという話ではありません。

    しかし、ここで考えたいのは、最短年限で卒業できなかった責任を、すべて学生本人に帰してよいのかということです。

    単位を認定する教員の責任

    大学教員は、学生の単位を認定する権限を持っています。同時に、評価基準を明確に示し、客観性のある試験や課題を設定する責任があります。

    気に入らない学生だから単位を与えないことがあってはなりません。一方で、評価するのが面倒だから全員を合格させることも許されません。学生が身につけるべき知識や技術を、実際に身につけたかどうかを確認する必要があります。

    看護師教育では、筆記試験だけでなく実技試験も行われます。知識があっても、それを実践に移せなければ患者さんへの援助にはつながらないからです。

    ただし、実技試験や実習では、教員の関わり方が学生の力の発揮に影響します。教員の態度によって学生が過度に緊張し、萎縮してしまうこともあります。その結果として「実力を発揮できなかった」のであれば、それを学生の能力だけの問題としてよいのでしょうか。

    「分からなければ聞きに来なさい」と言う教員は少なくありません。

    しかし、学生が実際に聞きに行ったとき、十分に対応しているでしょうか。分かりにくい授業をしておきながら、「授業をきちんと聞いていなかったからだ」と一方的に断じてはいないでしょうか。

    もちろん、授業を聞かず、準備や練習をしない学生もいます。現実には「どちらにも改善すべきところがある」ということなのでしょう。ただし、教育する側が自らの授業や指導を検証せず、学生の自主性だけを求めることには問題があります。

    「自主性」が自己責任になっていないか

    看護学生には、多少の困難があってもぶれない意思を持ち、自分で考えて行動する力が必要だといわれます。

    青年期にある学生が自分を理解し、自分の意思で物事を決定し、その決定に責任を持てるよう支えることは、確かに大切です。

    しかし、それがお題目になってはいないでしょうか。

    学生の自主性を育てることと、「大学生なのだから自分でやりなさい」と突き放すことは違います。自主性は、失敗しても相談できる環境や、必要な支援を受けられる関係の中で育つものではないでしょうか。

    栗原・末永による文献検討では、看護学生の退学理由として、次の六つが示されています。

    • 環境や対人関係の不適合
    • 看護師には向かないことへの気づき
    • 看護への興味や看護師になる意思の欠如
    • ついていけない学習への負担感
    • 学業を継続するための支援不足
    • 人生における危機や転機への直面

    退学は、学力や本人の意思だけで決まるものではありません。教員からの支援、健康問題、家族の事情、経済的問題などが重なり、学業の継続が難しくなることがあります(栗原淳子・末永真由美「看護学生の退学理由に関する文献検討」『日本看護学教育学会誌』36巻1号、2026年)。

    アルバイトについても同様です。

    「学生の本分は学業にある」という考えは間違いではありません。しかし、現在の学生がアルバイトをする理由は、遊ぶお金が欲しいからとは限りません。学費や生活費を賄うために働かざるを得ない学生もいます。「アルバイトをしていたから勉強できなかったのだ」と評価するだけでは、根本的な解決にはならないでしょう。

    入学させた大学の責任

    各大学は、アドミッション・ポリシーを掲げ、それに基づいて学生を選抜しているはずです。

    文部科学省は、アドミッション・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシーの三つについて、相互の一貫性を求めています(文部科学省「三つの方針の策定及び運用に関するガイドライン」)。

    また、厚生労働省の看護師等養成所の自己評価指針でも、入学者選抜方法と入学後の成績の推移を踏まえ、選抜方法の妥当性を評価する必要があるとされています(厚生労働省「看護師等養成所の教育活動等に関する自己評価指針」)。

    その学生に対して、入学後に安易に「看護師に向いていない」「大学で学ぶ力が不足している」と評価するのであれば、入学者選抜は適切だったのかという問いも生じます。

    少子化によって学生募集が難しくなるなか、各大学には定員を確保しなければならない事情もあります。しかし、学生を入学させる以上、ディプロマ・ポリシーに示した能力を身につけられるよう教育し、支援する責任があります。

    入学時の能力だけを問題にするのではなく、入学後に大学がどのような教育を提供し、学生をどのように成長させたのかも問われるべきでしょう。

    4年間で卒業することだけが成功なのか

    留年や休学をせず、4年間で卒業できるのであれば、それに越したことはありません。留年すれば学費や生活費の負担が増え、奨学金にも影響します。

    日本学生支援機構では、成績不振による留年期間中は貸与奨学金に新たに申し込むことができず、修業年限内での卒業ができないことが確定した場合には、原則として給付奨学金の申込資格を失います。ただし、災害、傷病その他のやむを得ない事情がある場合には例外があります(日本学生支援機構「現在留年中です。在学採用へ申し込むことはできますか」)。

    また、第115回看護師国家試験では、新卒者54,036人のうち50,862人が合格し、合格率は94.1%でした。これに対して、新卒者以外は、全体との差から計算すると5,578人中1,804人が合格し、合格率は約32.3%となります(厚生労働省「第115回看護師国家試験合格発表」)。

    ただし、この「新卒者以外」には、卒業延期をした学生ではなく、すでに学校を卒業して国家試験を再受験する人などが含まれます。そのため、この数字をそのまま留年者の合格率と解釈することはできません。

    それでも、学校を離れた後に国家試験の学習を継続することの難しさは示唆されています。

    しかし、留年した学生が看護師に向いていないとは限りません。留年した経験が、その後の看護師人生に必ずしも不利益になるとも限りません。

    病気や家族の事情、経済的な困難、人間関係のつまずきなど、学生が学業を中断する理由はさまざまです。一度立ち止まり、自分の学び方や進路を考え直す時間が、長い人生の中で意味を持つこともあります。

    看護師になることは、学校生活のゴールです。しかし同時に、看護職として、社会人として生きていくスタートでもあります。

    大学で身につけるべきものは、4年間で国家試験に合格する力だけではありません。困難に直面したときに助けを求め、自分の状態を理解し、必要に応じて進路を修正しながら、その後の人生をデザインしていく力も大切なのではないでしょうか。

    学生を支援することは、教育水準を下げることではありません。求められる水準に到達できるよう、学習環境や生活環境を整えることです。

    看護学生を途中で切り離さず、必要な支援につなげる仕組みを整えることは、一大学だけの課題ではありません。

    それは、これからの医療を支える人材を、社会全体でどのように育てるのかという問題でもあると思います。

    参考資料

    日本看護系大学協議会「大学で看護を学ぼう!」2026年7月

    厚生労働省「看護を取り巻く現状について」

    厚生労働省「看護師等学校養成所入学状況及び卒業生就業状況調査」

    文部科学省「令和6年度学生の中途退学者・休学者数等に関する調査結果」

    栗原淳子・末永真由美「看護学生の退学理由に関する文献検討」

    厚生労働省「保健師助産師看護師学校養成所指定規則」

    文部科学省「三つの方針の策定及び運用に関するガイドライン」

    日本学生支援機構「奨学金の休止・復活」

    厚生労働省「第115回看護師国家試験合格発表」

  • 看護研究が抱える辛さについて考える。

    私の偏った考えに基づくコラムです。
    「あなたは研究の何たるかが分かっていない!」と思われる方もいるかもしれませんが、学会などで多くの看護研究に様々な学びと刺激を頂いている者の一つの考えです。

    これまで看護研究のサポートに当たる中で、「看護研究が楽しい」と仰って下さる方もたくさんいましたが、「看護研究は辛い」という言葉を聞く機会も少なくありませんでした。ここでは「看護研究」について少し考えてみたいと思います。

    日本看護協会 看護職の倫理綱領11には「看護職は、研究や実践を通して、専門的知識・技術の創造と開発に努め、看護学の発展に寄与する。看護職は、常に、科学的知見並びに指針などを用いて看護を実践するとともに、新たな専門的知識・技術の開発に最善を尽くす。開発された専門的知識・技術は蓄積され、将来のより質の高い看護の提供に貢献する。すなわち、看護職は、研究や実践に基づき、看護の中核となる専門的知識・技術の創造と開発、看護政策の立案に努めることで看護学の発展及び人々の健康と福祉に寄与する責任を担っている。」とあります。

    看護研究は専門的な知識・技術の創造と開発、看護学の発展のために「看護師にとって必要なこと」と位置付けられています。

    この「看護師にとって」の“研究”の位置づけがポイントの一つ。

     看護師として働いて給与を得る。労働の対価は当たり前ですが、とても大切です。個人の研鑽のために「研究をしたい」と思われる方が取り組まれることは素晴らしいことだと思います。その反面、本人がやりたいわけではない研究を“やらなきゃいけなくなる”ということもあるように思います。病院の中で看護の質の向上を目的に、中堅のスタッフに白羽の矢が立つこともあります。場合によっては2年目の方・3年目の方に「看護研究してみない?」とお声がかかることも。「研究をすることが義務」となると、心に少し負荷がかかってきます。研究は、自分なりに文献を調べて考えたり、日ごろの看護を振り返ったりする貴重な機会ですし、看護師養成機関(大学や専門学校など)でも“研究の大切さ”は繰り返し伝えられます。だからこそ、「嫌だと言ってはいけない」という雰囲気があることが多いのではないでしょうか。

     「研究に取り組んで、学会発表までやったら満足感や達成感が得られた」という声を聴くことが多くあります。でも、お行儀やお作法に則って研究に取り組むためのエネルギーは少なくありません。

    研究をしたいと思っている人が研究に取り組めているか。逆に言えば、研究に取り組む人が、自分自身のためになることと実感を持って言えているか、が大きなポイントだと思います。

    研究なのか、看護研究なのか

    「看護研究」という名称のなかには「看護師がやる研究」「看護に関する研究」といった複数の意味合いがあります。そして「学会発表できる研究=看護研究」と考える方もいるように思います。

    その中で「研究をすること」が目的になってしまっていないか?という疑問があります。

    「○年目は研究しなくてはいけない」「学会発表しなくてはいけない」といった外部からの動機づけ目標付けが強くなると、本来の意味から外れてしまうこともあるように思うのです。

    研究は発表できるものでなくてはいけないのか。

    研究に取り組むことで「自分が知らなかった知識を得ることができた」というのは素晴らしいことです。また、日々の臨床で感じていた疑問を解消できたり業務の効率化につなげられたりといった成果も非常に大切なことです。

    個人的な勉強や学習も研究のひとつではありますが、一般的に学術研究では「一般化可能な知見を生み出すこと」・「新しい知識を追加すること」・「再現可能な方法で検証すること」が求められます。

    その点で「私の勉強になりました」で終わらせてはいけないともいえます。ただ、自分の知的好奇心を持たす活動も研究の一つのカタチであり、「学会などで発表できる内容にしなければ研究の異議がない」と言ってしまうのは少し乱暴な気もします。学会等での発表は「取り組んだ後にあるもの」と考えておく必要があります。とはいえ、私自身も「ここが締め切りだから、ここまでに研究計画書を作って倫理審査を通して、この学会で発表を」と“目標(締切り)”がないと動き出すのが難しいことも少なくありません。

    この矛盾する点が、看護研究の位置づけを難しくさせているように感じます。

    本来は、自分が興味を持ったことを掘り下げて調べることが研究であって、必ずしも学術研究でなくてはいけない、と決めてしまうと研究そのものが負担になってしまうのではないでしょうか。

    業務改善は研究ではないのか。

    「業務改善は看護研究ではない」という言葉を聞くことも多くあります。確かに個々の職場の業務を改善することは研究と言えるほど一般性を持つものではないかもしれませんし、学術的な新しい知見が得られるわけでもないかもしれません。

    ただ、研究に取り組もうと思った時に「こういうテーマではどうだろう?」という“研究の動機”として日々の業務に目が行くことはごく自然なことだと思います。「この業務はどうなんだろう?」という疑問や興味を持つことは看護研究の醍醐味でもあります。

    ただ、「病棟でこのアセスメントシートを導入したら、転倒が減少した」という事実があったとしても、「どういうシートなのか・既存のものと何が違うのか」「転倒が減少したのはたまたまではないのか」といった点を明確にしないと新規性も再現性もありません。そのため、「業務改善は研究ではない」のではなく、「業務改善を研究として発表するには、一般化可能な問いや知見へ昇華する工夫が必要である」といえるでしょう。そして、現場で研究的な思考を身につけるための活動としての業務改善には、大きな教育的・実践的価値があります。

    臨床看護師に求められているのは、多くの場合「世界初の発見」ではありません。

    むしろ、「自分たちの課題を明確化する」・「文献を調べる」・「改善策を考える」・「データを取る」・「効果を検証する」・「他者に説明できる形でまとめる」といったプロセスこそ、エビデンスに基づく実践(Evidence Based Practice)といえるのです。

    「研究をすること」が目的になってしまわないために

    ・研究者の自主性を尊重する

    「良い看護を行う → その効果を確かめる → 他施設でも参考になる形で共有する」

    という流れが本来的な形ですが「やらなくちゃいけない」という圧力が強くなると、自分の興味や関心といった内的な動機が損なわれてしまいがちです。“周囲はあくまでもサポートに努める”ことが大切だと思います。

     看護研究が“病棟を背負ってやるもの”という意識が強くなりすぎると、ベテランのスタッフさんや役職にある方が「もっとこうした方が」と過度にアドバイスしてしまうこともあるようです。私自身もこれまでの看護研究支援で「支援者が過度に口を出したことで、本人の研究ではなくなってしまった」と反省したことが何度もありました。研究に取り組む方が一生懸命に推敲した文章を簡単に直してしまわないように、慎重な姿勢で支援することが大切です。

    ・研究に取り組むことに余計な目的を付与しない

    研究の取り組む人を支援する際に重要なことは「余計な目的を付与しない」ということです。

    具体的には「研究するからには、発表しなさい」・「研究を通してチームワークやリーダーシップを磨きなさい」・「現場がよりよくなるための研究をしなさい」といった“アドバイス”は、結果としてモチベーションを低下させたり「研究は嫌だな」という気持ちにつながったりしすいので注意が必要です。

    「学会などで発表できることを目指そう」

     「一人では気づけないことを補い合うためにチームで取り組もう」

     「日々の業務にも活かせることが出来たらいいな」

    これらはあくまでも「そうだったらいいな」という話であり、他者から押し付けられた途端に負担になってしまいます。研究をサポートされる方には、ご留意頂けたらと思います。

    最後に

    日本看護科学会によると、「研究とは、特定の疑問に対する答えを導きだしたり、問題を解決したりするために、科学的方法を用いて行う系統的な探究であり、その目的は、学術の発展や実践のための知識体系の構築である。」

    そして「看護研究は、看護活動や看護教育、看護管理など、看護の現象に関する疑問に応えたり、問題を解決したり、あるいは看護現象の説明や検証のために、組織的・科学的な方法を用いて行う系統的な探究である。」とされています。

    このことから必ずしも「新たな知見を得ること」だけが重要であるわけではない、とお解釈できます。現場の実践研究や業務改善を研究的に検証する活動も、一定の範囲でこの定義に含めて考えることができます。

    「研究の取り組むこと」は、研究者や大学の教員にとっても“楽ではないこと”だと思います。新しい知識を得ること、世の中に新しい何かを提供できることには喜びや楽しさがあります。しかし、筋トレと同じく「しんどいから効果がある」ものでもあります。研究に取り組む中で感じるしんどさが、看護師さんの成長や経験につながるものであることを願っています。